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司祭からのメッセージ


神にひとり息子を捧げようとするアブラハムとそれをとどめる天使

キリストを宣べ伝える

                      牧師   司祭 ダビデ 渡部 明央

  

 祈祷書の32ページ(もしくは42ページ)をご覧ください。朝の礼拝(42ページは夕の礼拝)の祈りの中に、次の祈りがあります。

 司式者 主の平和を今の世に与え
 会 衆 地の果てまで、戦いをやめさせてください

 この祈りを10年以上、毎朝毎晩唱えていますが、今ほど痛みをもって祈ることはありません。

 ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まり、5カ月以上が経ちました。戦場の凄惨な光景が報道され、多数の命が奪われています。穏やかな日常が暗転した人びとを想うと心がしめつけられます。

 ニュースを見ていて思うのは、人の欲の深さです。「何かを得たい」「何かを手に入れたい」という誰もが持つ人間の欲は、時に「奪ってでも手に入れたい」あるいは「相手を支配したい」というものへと形を変えます。そしてそれは、わたしたち人間なら誰にも起こりうることなのだと思います。わたしたちも、自分は正しいと思い、自分を主張し、相手より優位に立とうとする姿があります。この度の戦争を通して、人の欲深さとわたしたち人間のもろさが浮き彫りになっているように感じます。

主イエスさまは、「得る」のではなく「与える」ことを教えられました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)とあるように、神はわたしたちのために愛する御子イエスさまを世に与えてくださいました。そしてイエスさまは、わたしたちのために十字架にかけられました。イエスさまは、この世の誉れや称賛、栄光を求めるのではなく、ご自分をささげる道を示されたのです。
 
 このイエスさまの教えを通して、まことの平和を築く道が開かれます。「得よう得よう」とすればするほど、他者の大切な物を奪い合う事態が生じます。それは相手を傷つけてでも欲しいものを得ようとする姿です。

 しかし、自分の大切な物を差し出すとき、奪い合うのではなく、共に生きる道が開かれます。自分の満足を求めるとき、わたしたちは自分だけという自分勝手な生き方となります。しかし大切な物を与え、人と分かち合うとき、それは共に生きる道へとつながり、ひいては平和を築く一歩となるのです。

さきほどの祈祷書32ページ(42ページ)の祈りの続きはこのような祈りです。
  司式者 主の道をあまねく地に知らせ
  会 衆 主の救いをすべての国に知らせてください
 
 この祈りにあるように、主の道、すなわち主イエスさまの愛があまねく地に広がり、すべての国の人が主の愛を生きるとき、そこに平和が生まれるのだと思います。
 
 そして何よりも、わたしたちは自分自身に、きちんと主の道を伝え、主の愛を生きることができるよう祈りたいと思います。「平和宣教」とあるように、この1ヶ月間は平和を祈るだけでなく、宣教する時でもあります。宣教とは、教えを宣べ伝えること。宣教というと、他者へ、あるいは外へという意識になりますが、先ず何よりも、自分自身へキリストの教えを宣べ伝えることを忘れてはなりません。わたし自身がしっかりと主を仰ぎ見、キリストの教えを身に受け、そしてキリストの愛を生きること。わたしたちがキリストを生きるとき、キリストの愛が満ち溢れ、隣の人へと伝わっていき、そこに小さな平和が生まれるのです。